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人気歴史家&作家の磯田道史先生に聞いた!明智光秀ってどんな人?

f:id:kyotoside_writer:20180908195048j:plain再来年の大河ドラマは『麒麟がくる』に決定しました! 明智光秀が主人公のドラマです。長年、京都府民が誘致活動を続けて待ち望んできたドラマが、とうとう制作されます。しかし、明智光秀といえば“本能寺の変で信長を討った人”。それ以上は知らない~という方も多いのではないでしょうか。
そこでKYOTO SIDEでは歴史学者・磯田道史先生に明智光秀について教えてもらおうと企画しました。磯田先生は国際日本文化研究センター准教授。『武士の家計簿』、『無私の日本人』などの著作で知られ、これらの本は映画化もされています。それだけでなく、NHK・BSプレミアムの歴史番組「英雄たちの選択」の司会など多彩な活動で知られ、ご多忙な先生です。とても取材は無理かと思われましたが、磯田先生が「光秀の大河ドラマ化にともなって福知山公立大学で講演される」との情報をキャッチ。福知山に向かわれる車中にお邪魔して、貴重なお話をうかがうことができました。

磯田道史先生が見る、明智光秀が持つズバ抜けた才能とは

f:id:kyotoside_writer:20180908195100j:plain―今日は先生に明智光秀についてお話を伺いたいと思っています。よろしくお願いします。

磯田 よろしくお願いします。
大河ドラマ『麒麟がくる』が決まりました。京都府にとって明智・細川の2家は非常に縁の深い家です。両家とも、福知山や亀岡、長岡京など、京都府内の都市を拓いたゆかりの家です。

―そうなんです。ところが、私たちは小説やテレビドラマ、映画などからでしか光秀像が想像できなくて。磯田先生が古文書から読み解く明智光秀って、どんな人ですか?

磯田 光秀の出生地については諸説ありますが、美濃国(現在の岐阜県)で生まれたようですね。当時、この辺りは領地の取り合いが激しくて、土岐氏や斉藤氏に属していた明智家が没落するような戦乱があった場所です。この動乱の中で放浪を余儀なくされただろうと言われています。

ところが光秀は3つズバ抜けたところがあって、1つ目はズバ抜けた野心、2つ目は家族まるごと見た目がいい。イケメン、美女なんです。3つ目は超絶な記憶力。この3つが揃って何でもできるという強い自己肯定感があった人です。

光秀の容姿については当時、日本に来ていた宣教師のルイス・フロイスが光秀の家族を見て、“王侯貴族のようだ”とヨーロッパに送った報告書に書いています。光秀自身も「土岐氏の大分の衆なり」と言っています。つまり、自分は、美濃の名門土岐氏一族のうち、なかなかの家柄だと、人々に自称し、思わせていた。でも、これは、光秀が自身の出自をかなり高めに盛っていたと思われます(笑)。

―雰囲気イケメンだったんでしょうか。

磯田 そうでしょうね。知的な容姿と品の良さが、あったのではなでしょうか。
美濃の次に、光秀が現れたのが越前(福井県)です。時宗のお寺の門前に置いてもらって朝倉氏を頼っていたようです。しかし、野心家の光秀には、こんな生活は面白くなかったのでしょう。近江(滋賀県)の高島市にあった田中城に籠城して、医薬の処方を教えるなど、いろんなことをしていたらしい。そこで、夢は大きく、足利将軍に近い人に奉公できないだろうかと考え、長岡京市ゆかりの細川幽斎の家来になったんです。ほら、ここに「細川幽齋家来の家来也」とあります。

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当日の講演で配られた資料より

「これは『武功雑記』といって、平戸藩松浦家が武家の間に飛び交っていた噂話を書
き留めたもので、江戸時代の史料にすぎません。しかし、光秀と同時代の一級史料『多
門院日記』にも、光秀が細川の「中間(ちゅうげん)」だったと記されています。中間は荷物運びなどをする雑役従事者です。恐らく光秀は恥を忍んで、荷物運びでもいいから、とにかく、置いてくれ、と言って、細川の家来になったのかもしれません。本当は、そこまで、低い立場ではなかったかもしれませんが、苦労していたのは、事実です。

光秀と長岡京にあった細川家

―細川幽斎は長岡京にもいたんですね!

磯田 ええ。細川幽斎は、織田信長から、当時「長岡」とよばれていた、今の長岡京市・向日市にまたがる一帯を、領地としてもらいました。ただ、これは光秀を家来にしてのちの話でしょう。細川家時代の、光秀の逸話は少ないのですが、あります。光秀は手段をえらばないところがあり、実は、主人を裏切る行為を、細川家時代にも、一回、やっているのです。

―ええっ!! 

磯田 光秀は恐らく頭は良いのでしょうけれども、細川家の同僚や旧来の家臣たちと合わなかったようです。ほら、ここに「氣に入られず候故。(気に入られなかったので)」とある。

f:id:kyotoside_writer:20180908195118j:plainそして、光秀は何とかして信長に奉公したいと願っていました。
信長は当時、最も勢いのある権力者で上がり調子でした。そのうえ実力主義で人材をどんどん登用していました。光秀が「信長に仕えれば出世できる」と思ったのでしょう。ちょうど、そのとき、幽斎から、「信長の所に使者に行け」と言われました。

―なんだかドキドキしますね。

磯田 織田家についた光秀は「信長出頭人前」と書いてあるように、信長に気に入られている側近の所へ行って “かねがね信長公に奉公したかったんだ” と伝え、スカウトして欲しいと猛アピールします。そこで側近が信長に言上すると信長は非常に機嫌がよく、“採用だ”と言いました。
ここからです。光秀の尋常じゃないところは。採用されたとはいえ細川家のお使いで来ているわけですから、一度、細川家へ帰って、用向きを復命し、“今度、織田家に使えることになりました。これまでありがとうございました”と仁義を切るのが普通です。
ところが光秀はすごい。“もう織田信長さまの家来になったのだから細川へは帰らない。細川家への用向きは飛脚で届けたい”といい、そうしてしまいました。このやり方で、信長には気に入られました。
信長は、せっかちで、とにかく、自分にだけ、滅私奉公してくれればいいという人です。これをみてわかるように、光秀は、はじめから義理堅い人ではありません。合理主義と申しますか、こういう気の早さがありました。細川家にしてみれば、光秀を使者に出したら、行ったきりで、帰ってこない。「辞めます」と、飛脚をよこしてきたのですから裏切られた気分になるわけです。後足で砂をかけられた感じでした。でも、光秀にしてみれば、優秀な俺をよくも中間とか低い身分で使ってきたな、と、言いたかったかもしれません。事実、細川家の重臣たちからは、ロクな扱いをうけなかったのですから、辞めるときも、丁寧に、仁義を切ることはしなかったのです。

f:id:kyotoside_writer:20180908195048j:plainところが、ここからが面白いところです。細川家もしたたかです。光秀が信長のもとで偉くなっていくので、これを利用しようとした。そして、かつて、光秀と折り合いの悪かった松井佐渡が光秀と面会して、こんなやりとりになっていきました。
まず、光秀が松井に言いました。“松井さん、あなたに気に入られなかったので、かえって信長に取り立ててもらって出世できました。出世できたのはあなたのおかげです。この仇は恩で返したいと思います”そういうと、松井はすかさず“明智どの娘をうちの若様(細川忠興)の嫁にいただきたいのですが”といった。明智は“昔の主人のことですので忝(かたじけな)い”といって結婚がまとまった。そういう話を記した書物もあります。

―光秀の娘というと後のガラシャですよね。

磯田 そう。この娘は絶世の美女です。王侯貴族のようだとヨーロッパに報告が行くぐらいですから、細川家では早くからこの美貌の娘に目を付けていた。そして信長の勢力が増していくなかで、その出世頭となりつつある光秀の美形の娘を嫁にとっておこうと考えたのでしょう。美人だし、頭はいいし、親父は将来性がある。これを嫁にしない手はないと。

「信長、やれるかも」と思った??

―やはり光秀というと“なぜ本能寺の変を起こしたのか”が疑問になると思うのですが、どういう風にご覧になっていらっしゃいますか?

磯田 本能寺の変というと、なぜ光秀は裏切ったのかということが、常に問題になります。しかし、私は「なぜ、光秀は信長を簡単に殺せると思ったのか」、この点も大事な気がします。これは、あまり歴史家の方はおっしゃいませんが、大切なところです。

信長は本能寺に泊まる前、京都にくると必ずといっていいほど光秀の屋敷に泊まっています。私が思うに自分の屋敷に信長が日常的に泊まっていたってことが、いざとなったら殺せるという自信になったのではないかと思います。

―信長の京都での生活スタイルが分かっていたと。

磯田 そう。少人数で泊まるという行動パターンも知っていた。信長は在京中、非常に無防備で、自分の懐の中に入ってきてスヤスヤと眠っていたわけですから、襲えば殺せるという自信につながったと思います。ですから、光秀は、信長に追い詰められ、将来に不安をおぼえた時、「殺れる」と思ったはずです。信長が無防備な姿を京都で光秀にみせつづけて、光秀に「できる」と思わせてしまったのも、本能寺の変の原因の一つだと、私は考えます。

―そうすると先生の考える明智光秀像はどんなイメージですか

非常に頭がよくて、どんな土木工事についても古典についても連歌についても、ほとんどわかっていて即答できる。頭がいい。そして野心家で、見た目よくて合理的で、あまり義理固くない。ちょっと自分勝手なところがあるというのが、恐らく等身大の光秀だったろうと思います。

開かれた歴史オタクを目指す

―先生のことについてもお伺いしたいのですが、先生のお話される歴史上の登場人物は生き生きとして魅力的で、しかも非常に身近に感じられるですが、やはりそういうところを心がけていらっしゃるのですか?

磯田 歴史は現代に必ず繋がっているものだから、ここを大切にしていきたい。たとえば、歴史は防災にだって役に立ちます。昔、ここには洪水がきた、土砂崩れがきた、津波がきた、気をつけろ。こういうふうに、歴史情報を役立てれば、人命だって救われることがあります。また、歴史は観光にも役に立ちますよね。
特産品を作るにも、地元の歴史に基づいて作ると物語が付きますから、楽しい。歴史をスパイスにすれば、ただのモノから、モノ・ガタリが加味されて、付加価値がつきます。和菓子をつくるにしても、長岡京市だったら、勝龍寺城あたりで、明智光秀と羽柴(豊臣)秀吉が、山崎の合戦をやったわけですから、ここで戦った武将の紋所や旗印をあしらってみただけで、ふつうの菓子とは違うものになり、お土産としての価値は高まります。価値の源泉は、モノ=味だけではないんです(笑)。
味×歴史=モノ×カタリが価値を高めるんです。地方を元気にするための工夫としての「歴史」。これも考えてみる必要があります。

 ―先生が史実を発信することで、それらを活用してもらいたいと

磯田 そうですね。活用してもらえればと思います。

―でも、そんな風に思われるようになったきっかけはあったのですか?

磯田 私、最初は閉じた歴史オタクだったんです。でも、途中から開かれた歴史オタクを目指すようになったんです。

―転換期は何だったんですか?

磯田 いろいろありますよ。最初は大学院生の時にアインシュタインの「人間の世の中があまりよくならないのは 人の価値とは、その人が得たものではなく、その人が与えたもので測られる」と書いた言葉でした。さすがアインシュタイン、一言で言い表していますよね。
あいつは、金持ちだから偉いとか、有名だから偉いとか、地位の高い役職についているから偉いとか。これらは得たものですよね。ゲットしたもので人を偉いと評価するのでは世の中は良くならない。それをアインシュタインは見破っていたわけです。

f:id:kyotoside_writer:20180908195147j:plain磯田 人類のためにすごい発明をした、こんなに人の役に立つことをしてくれたとか、そういう人に与えたもので評価する世の中にならないといけない。これを読んで、なるほど世の中が良くならないのはそのせいだ、と気が付いたんです。
そこで、自分が得た知識を人の役に立つように伝えるようにしなくては思っていたら、3.11の震災が起きたんです。考えてみると、原発事故にしても、地震・津波にしても、過去の過去から考えて、「ここに、こういうかたちで災害が来る」という歴史的警告が、しっかり、なされていなかったから、被害が拡大したことに気が付いたのです。そこで4年間浜松に移住して地震や津波、洪水の古文書を調べて『天災から日本史を読みなおす』(中公新書、2015年)を書いたんです。
その辺りから歴史を歴史の中だけでやっている、閉じた学問ではいけない。歴史を入口にして今の世の中に役に立つことをやることにしました。ただ、役に立たない歴史も大事ですよ。学問というのは目先、役に立つことだけやっていたら、最後は駄目なものになりますから。一見、役に立ちそうにない基礎研究も大事です(笑)。ですから、直接は世の中の役に立たないような古文書のものすごく細かいところをやる研究があっても、いいんです。それがないと世の中に役に立つものができません。ただ、それと同時に、今の人に、直接、役に立つことも、やったらいい。そう思うようになりました。

 

歴史は嗜好品ではなく実用品、いうなれば靴

どうしても人は災害に襲われるわけですから、「歴史を知っていることで、災害が避けられたりするようでないといけない」と思いました。
歴史学者をやっていると、こんなふうに、声をかけられます。「磯田先生、私、歴史、好きです」「うちの父、歴史好きです」などと。これでは、歴史が、タバコや酒と同じ扱いです。違います。歴史は嗜好品ではありません。それが無いと生きてはいかれない実用品です。歴史をレファレンスして、計算して、シミュレーションすることでしか、人はこれから起こることを予測できない。歴史がないと、災害も事故も、避けがたくなります。
だから、私は言いたい。歴史は靴です。人が世の中を安全に歩くための靴です。歴史が分かっていないと、人は安全に世の中を歩けません。ここが大事な点です。裸足で歩いちゃいけません。歴史という靴を履かずに、世の中を歩くのは、どうみても危険です。ですから、私は、歴史という名の「靴」づくりに励みたいと、思っています。ただ、歴史が全部役に立つとは限りません。はいたほうが、けがをする下手な靴もあります。そうならぬよう、細心の注意をはらって、歴史靴を編みたい、と思っています。

 

 ―磯田先生ありがとうございました。
明智光秀の意外な一面を知れただけでなく、お話を伺って歴史の見方、活用の仕方などなど目から鱗なことばかりでした。そしてテレビで拝見するのと同じく、非常にお優しくて愛に溢れた方でした!ありがとうございました。
光秀のことをより知った上で光秀縁の福知山や亀岡、長岡京を歩くと、前とは違った新たな景色が見られそうです。この秋、ぜひ、出かけてみてくださいね。

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