2020年大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公・明智光秀の盟友であり親戚でもある戦国武将・細川幽斎(ゆうさい=藤孝)。
前回は幽斎の人物像をご紹介しましたが、幽斎を語る上で欠かすことができない強烈なエピソードが西軍1万5000人vs幽斎軍500人で戦った「田辺籠城戦」です。地元舞鶴の人々に親しまれている理由や、田辺城籠城戦ゆかりのスポットをご紹介します。
※読みやすさ重視で細川藤孝を「幽斎」で統一します。
- 地元の祭でも再現される田辺籠城戦、細川家が舞鶴人に親しまれる理由
- 圧倒的に不利だった戦を地元の僧侶や住民と共に耐え抜いた52日の籠城戦
- 落城寸前!から停戦に持ち込んだ「古今伝授」、“文化”という最終兵器
- 戦をサポートしてくれた舞鶴の人々へ、幽斎が恩返し
- 田辺城籠城戦&幽斎ゆかりのスポット紹介
- 地元小学生による田辺籠城戦の講談
- 幽斎が創建、田辺城の遺構が残るお寺
- 幽斎から褒美として贈られた涅槃図と梵鐘をもつ寺院
地元の祭でも再現される田辺籠城戦、細川家が舞鶴人に親しまれる理由
今回は長年に渡り城郭の発掘調査・研究をしてこられた田辺城資料館の館長・吉岡さんにお話をおうかがいしました!
田辺籠城戦とは
慶長5(1600)年9月15日に起こった関ヶ原の合戦。石田三成方の西軍VS徳川家康の東軍の戦いは有名で、教科書で必ず出てきますよね。その前哨戦の一つが同年7月21日から9月12日までの52日間の田辺籠城戦です。“もう一つの関ヶ原”とも呼ばれているそうです。
圧倒的に不利だった戦を地元の僧侶や住民と共に耐え抜いた52日の籠城戦
田辺籠城戦は西軍1万5000人VS幽斎軍500人の戦いでした。幽斎軍の500人の内訳はというと、将兵50人、地元の住民や僧侶などで構成。圧倒的に不利ですよね!
城下の瑞光寺や桂林寺の僧侶にも持ち場が与えられ、その活躍が伝えられています。
7月21日に戦いが始まって約1ヶ月、鉄砲や大砲を撃ち合う攻防戦が城下で繰り広げられます。8月末には膠着状態に。田辺城を竹の柵で取り囲まれてしまい、人や物の出入りがストップします。
戦いは事実上休止状態に・・・。
ミニコラム①●籠城中、食料や水はどうしてたの?
食料や武器・弾薬を戦いが始まる前に領内の宮津・峰山・松倉(久美浜)の各城から船で田辺城に運び込まれました。わずか2.3日で準備したんだとか。
幽斎の呼びかけに応じて大量の米を持って籠城に加わった地侍や僧侶もいました。
また、本丸付近では地下水位が高いために井戸から豊富な水が湧いていたそうです。
ミニコラム②●発掘で出土した籠城戦の「鉄砲玉」
西軍から田辺城へ打ち込まれた鉄砲玉。湿地に立つお城だったので保存状態のよい遺物が出土します。
落城寸前!から停戦に持ち込んだ「古今伝授」、“文化”という最終兵器
全員で自害する覚悟をしていたところ、思いもよらないところから助け船がやってくるのです。幽斎から手紙を受け取った天皇家より使わされた勅使が、古今伝授が途絶えることを恐れて「停戦せよ」との天皇の意向を伝えに田辺城へやってきます。7月20日から52日後の9月12日に停戦となります。幽斎はこの大ピンチを見事に乗り切りました!!
関ヶ原の合戦は停戦の3日後だったので、この1万5000人は参戦できなかったそうです。結果的に、関ヶ原合戦の勝利に幽斎が大きく貢献したとも言われています。
天皇家・幽斎が守ろうとした古今伝授とは何?
平安時代に編纂された古今和歌集の解釈を教え伝え授けることを言います。秘伝とされていて、口伝、切紙、抄物(※古今伝授の注釈のことを指す)の3つの方法で、一対一で伝授します。一子相伝ということでしょうか。
古今伝授は代々、公家の三条西家にて継承していました。三条西実枝(さねき)の子が幼かったため、その子が大きくなる間の取り持つ相手として武家ながら当時、芸能・文化の最高峰であった幽斎が選ばれました。
その後、幽斎は次に取り持つ相手の、後陽成天皇(ごようぜいてんのう)の弟・八条宮智仁親王(はちじょうのみやとしひとしんのう)へと伝えるため、慶長5(1600)年3月から古今伝授の講義をスタートします。しかし、講義の途中で籠城戦が始まり中断します。
田辺籠城戦で絶体絶命のピンチを迎えた幽斎。そこで苦肉の策でしょうか、智仁親王へ古今伝授を伝え終えた証明書と古今和歌集の注釈を入れた箱に辞世の句を添えて送ります。
この手紙をきっかけに、天皇の勅使が田辺城にやってきて停戦することになります。
ミニコラム④●戦うふりをしていた敵も!いた
戦国大名たちは文化に精通した人物を非常に尊敬していました。敵陣のなかで、幽斎と和歌の師弟関係にあった者は、なんと空鉄砲を打っていたそう!また、関ヶ原でどちらの味方になろうか?日和見していたとも言われています。
戦をサポートしてくれた舞鶴の人々へ、幽斎が恩返し
幽斎は家を失った人には材木を与えたほか、籠城を海から支援した吉原の漁民へ恩賞として海岸沿いの漁が自由にできる特権を与えました。
また、現在も4年ごとに行われる「吉原の太刀振」は、当時の奮戦ぶりを後世に伝えるために始まったと伝わっています。
写真は桂林寺の涅槃図。室町時代に描かれた約10畳という大きさ(通常非公開)。ゆくゆくは国宝になるかも!?と言われるレベルのものなんだとか。桂林寺には参戦した褒美として幽斎から「涅槃図」と「梵鐘」が贈られました。桂林寺については当記事の幽斎ゆかりのスポットご紹介部分もご覧ください~。
ミニコラム⑤●幽斎の人柄がわかる?直筆の書状
幽斎直筆の書状。左下に「田辺より/ゆうさい」とあります。京都から丹後・田辺に移ってきて以来手紙を送っていなかった相手(おそらく公卿か女性)から来た手紙に対する返事。相手を気遣う気持ちを現している内容などから、手紙全体に丁寧に接する態度が感じられるそうです。(京都府立丹後郷土資料館 森島さん)
■2019年 展覧会情報■京都府立丹後郷土資料館
企画展「光秀と幽斎~丹波・丹後の攻防と支配~」2019.9/28~11/17
田辺城籠城戦&幽斎ゆかりのスポット紹介
舞鶴といえば、自衛艦、赤れんがパークが有名ですが、京情緒あふれる歴史的スポットもあります!今回は田辺籠城戦ゆかりのスポットや、イベント、幽斎ゆかりのお寺をご紹介します。
幽斎が築城した田辺城の歴史を辿る@田辺城資料館と舞鶴公園
資料館と公園の見どころを田辺城資料館・館長の吉岡さんに案内していただき、素朴な質問に答えていただきました。
-田辺城の「田辺」とは?舞鶴は元々田辺と呼ばれる土地だったんですか?
はい、地域名に由来して田辺城という名前が付いています。別名、舞鶴城とかいて「ぶがくじょう」とも言われていたんです。明治の版籍奉還の際、お城の名前をとって、舞鶴となりました。
-幽斎がつくった田辺城はどんなお城だったんですか?城下町もあったんですか?
はい城下町もありましたよ。模型(上の写真)でみると舞鶴湾とお城の間にありますね。田辺城は舞鶴湾のすぐ傍に位置し、湿地や川に囲まれた場所に立っていた平城です。このような場所にお城を作るため、川の流れを変える大規模な土木工事を幽斎が行いました。
水辺の城作りの名人・光秀もいろいろとアドバイスしたようですね。完成するのに10年もかかったんですが、残念ながら、今では細川時代の建物は残っておらず、天守台の石垣のみ残っています。
-石垣の石の色が様々ですね。まだ江戸時代のお城のような石垣の作り方も確立してなく、さらに石の供給体制も整っていない時代でしたよね?石はどこで調達してきたんでしょう?
はい、この石は舞鶴の博奕(ばくち)岬周辺から赤みがかった花崗岩の自然石や割石を船で運びました。
江戸時代に積まれた石垣には切り出して加工したタガネの痕が残る石材がみられます。
-ほかに幽斎を感じられる場所って残っていますか?
幽斎らが飲んでいた井戸の跡(上写真)はありますよ。一部を発掘して確認したあと、保存のために埋め戻しているんですが、掘ると今でも水は枯れていないんです。
城跡内の庭園、心種園の一画にある現在6代目の「古今伝授の松」です。幽斎が古今伝授を終え、田辺城開城の際に松を植え「古今伝授 玄旨」と書いた札を掛けさせたという言い伝えにちなんだ松が今日まで残ります。
ミニコラム⑥●今はなき大手門を古写真で見る
現在の田辺城跡城門(大手門)は平成4年に建てられたものです。幽斎の頃の門は写真でご覧いただきましょう。
幽斎が宮津城を焼き払った後、新しい支配者・京極氏によって再建された宮津城の大手門は、田辺城から移築されたものといわれています。(京都府立丹後郷土資料館 森島さん)
-幽斎の後はどんな城主(田辺藩主)がいたのでしょう?
幽斎のあとは、京極氏が4代、廃藩置県までは牧野氏が10代続きました。資料館ではそれぞれの城主についての解説もしています。
牧野氏は一番長い間、城主として町の発展に貢献したということもあり、地元では大変有名なんですよ。
牧野家に伝わっていた江戸時代初期の甲冑も展示されています。総重量約23キロ。
応相談で、実際に兜と面頬(めんぼお)を付けてみる体験もできますよ。
■■Information■■
田辺城資料館
0773-76-7211
京都府舞鶴市字南田辺15-22
9:00~17:00
月曜休館(月曜日が祝日にあたる場合はその翌々日)、祝日の翌日、年末年始
大人200円、学生100円
JR西舞鶴駅から徒歩10分
地元小学生による田辺籠城戦の講談
「まいづる細川幽斎田辺城まつり」@舞鶴公園
籠城戦で大活躍した幽斎を偲び、武人として、また文化人としての功績をたたえる「まいづる細川幽斎田辺城まつり」は、籠城戦のストーリーを順に展開していきます。
毎年5月に開催され、時代行列や芸能にまつわる催しは特に見応えがあります。今年(2019年)28回目を迎えました。
中でも小学生による講談は全国的にも珍しく、田辺城まつりの名物のひとつ!!
前夜祭で毎年行われる講談「田辺城籠城の一席」は明倫小学校5年生(有志)約20名がそれぞれに配役を演じ、公演時間は約50分にも及ぶ大作です!
地元の歴史を学んで次世代に繋げていく小学生の熱演を是非ともご覧ください。
幽斎が創建、田辺城の遺構が残るお寺
幽斎ゆかりの瑞光寺
幽斎が舞鶴に親しみを感じていたことかがわかるお寺をご紹介します。
本能寺の変のあった直後の天正10(1583)年9月に幽斎が建立にとりかかり、11年の歳月をかけて完成させます。落慶の際には幽斎が本堂で能を舞い、宴を開いたという記録も残っています。
幽斎が惚れ込んだ優秀な小浜の武士だった「釋明誓(みょうせい)」を初代住職として迎えました。釋明誓(楠源吾)は、楠正成の流れをくみ幽斎の妹・さちの婿になった人物です。
お寺の至る所に細川家の家紋と同じ寺紋「九曜紋」があります。関ヶ原の合戦で忠興が陣旗に記したことでもよく知られていますよね。
田辺城の門を移築した山門とされています。元はお城の門だったため馬に乗って通れる高さになっていて、通常の山門よりも大きいのが特徴です。
関ヶ原の合戦の功績により細川家は九州に赴きますが、お金も時間もかけて完成させたお寺を舞鶴に置いていった幽斎の心境はどのようなものだったでしょうか。
■■Information■■
浄土真宗本願寺派 不動如山 瑞光寺(ずいこうじ)
※通常非公開、山門は道路から見みることができます
0773-75-1045
京都府舞鶴市寺内100
JR西舞鶴駅から徒歩15分
幽斎から褒美として贈られた涅槃図と梵鐘をもつ寺院
田辺城籠城戦で幽斎とともに戦った桂林寺
応永8(1401)年に創建された曹洞宗の寺院。往時は末寺が40近くにのぼり、舞鶴周辺の曹洞宗寺院を統括する要寺でした。
そのため、田辺城籠城戦の際は4代目住職・大渓和尚が末寺にも参戦を要請し、僧兵として大手門を守ります。その功績が幽斎に認められ、感謝状とともに涅槃図と梵鐘が褒美として与えられました。
三門からは田辺城(黄矢印)を見下ろすことができ、籠城戦の様子をこちらから見ていたことがうかがえます。
三門の上には釈迦三尊をはじめ十六羅漢を安置。(通常非公開)
鐘楼には幽斎から寄進された梵鐘が安置されています。通常非公開。毎年大晦日には「除夜の鐘」をつくことができます。
京都府指定文化財の涅槃図は室町時代に窪田統泰(くぼたとうたい)により描かれたもの。約10畳の大きさを誇ります。
通常非公開となっており、毎年2/15の涅槃会(お釈迦様の入滅した日の法要)の際に一般に公開。亡くなった釈迦の周りには釈迦の弟子や動物など生類が嘆き悲しむ様子が描かれています。
こんなに大きくて立派な涅槃図をもらった当時の住職の気持ちはどのようなものだったのか、みなさん想像してみてください。
■■Information ■■
桂林寺
0773-75-0168
京都府舞鶴市紺屋26
9:00~17:00
JR西舞鶴駅から徒歩15分
いかがでしたか?
来年の大河ドラマをより面白く見るための予備知識、今回は明智光秀と縁深い武将・細川幽斎についてでした^^
知れば知るほど興味がわく武将・細川幽斎…ぜひ京都の舞鶴で、ゆかりの地めぐりしてみてくださいね〜!
さかもとみえ
2019年から20年にかけては京都府内各地の資料館や博物館などで、2020年大河ドラマの主人公・明智光秀に関する展示やシンポジウムが行われる予定です!ほんまもんの史料を間近でみることができるまたとない機会なので、ぜひともスケジュールをチェックしてください~。