2023年のNHK大河ドラマの主人公 徳川家康。続々と公開される情報にワクワクしている人も多いのではないでしょうか? そんな中、KYOTO SIDEでは家康一行が決死の覚悟で逃走したといわれる「伊賀越えの道」をめぐってきました!
京田辺市編に続き、第2弾となる今回は宇治田原町です。地域に残る伝承とともに、宇治田原町の魅力や見どころスポットを紹介します。
・基本的な感染予防対策(マスクの着用・手洗い・身体的距離の確保など)を徹底してください。
・屋外の活動も慎重にしてください。
・発熱等の症状(発熱、咳、のどの痛み、息苦しさなどの症状)がある場合は、外出を控えてください。
いざ出発!! 伊賀越え当時の地形が残る宇治田原の地
「伊賀越えの道」とは1582(天正10)年6月2日に織田信長が明智光秀に討たれた「本能寺の変」により、信長と同盟関係にあった徳川家康に命の危険が迫り、当時、大阪の堺で周遊していた家康が山城・近江の甲賀・伊賀を通り、伊勢から三河国まで帰還したルートのことをいいます。
その時に通ったとされる宇治田原町の「伊賀越え」ルートを巡るべく、今回「宇治田原の歴史を語る会」代表の茨木輝樹さんに案内してもらいました。
まず、茨木さんのお話を伺いびっくりしたのが、宇治田原町には家康が伊賀越えの時に通った440年前の地形が8割ほど残っているということです。宇治田原町は鎌倉時代より宇治茶の栽培が始まり、知る人ぞ知る日本緑茶発祥の地。もしかしたら「家康がみた茶畑の風景を見ることができるかも!?」と、期待に胸を膨らませ宇治田原町の伊賀越えスポットめぐりをスタートしました。
家康が立ち寄った「山口城址」
今回のスタート地点は「山口城址」です。
山口城とは信長の家臣、山口甚助秀康(やまぐちじんすけひでやす)が築いたと伝わる城です。築城の時期は1570〜1580年頃と推測されており、城の広さは東西約180m、南北約80mの約4,000坪であったといわれています。
家康が山口城に到着したのは6月3日の午前10時頃。「本能寺の変」の知らせを受けた家康は、河内(大阪府)より尊延寺(大阪府枚方市)を経て、草内の渡し(京田辺市)から木津川を渡り、田原郷(宇治田原町)に入ったと考えられています。この際、山口甚助秀康が草内の渡しまで迎えを寄越したとされています。家康は山口城で軽い食事をとり、しばしの休憩の後、馬を乗り換えて松峠を通り、奥山田にある遍照院に向かったといわれています。
山口城址の遺構はほぼ残っていませんが、昭和28年に水害が起こるまでは城の北側を流れる「城の川」に山口城の石垣が残っていたそうです。
また、現在は私道になっていますが、山口城址南側には家康が通ったとされる当時の道が現在も残っています。
山口氏は「関ヶ原の戦い」で亡び、城はその後廃城となりました。城跡のすぐ東には山口氏一族の菩提寺である極楽寺があり、寺の表門は山口城の遺構と伝えられています。
極楽寺の前を通り過ぎ、国道307号を渡って次なるスポットを目指します。
宇治田原には伊賀越え当時の地形が多く残っているだけあって、家康が通ったとされる道中には険しい道が幾つもあります。糠塚(ぬかづか)地区入り口に差し掛かると「この道を通るんですか??」と思わず口に出てしまうほど鬱蒼とした道が続いていました。
「うわ〜」とビクビクしながら茨木さんに着いて行くと「ここはそんなに酷くないよ。昔の道ってこんなんです」といいながら先導してくれました。この道が伊賀越えのルートだということは地元の方でもあまり知られておらず、専門家の方が来られた時に案内されるような道だそうです。この道なき道を進むのは大変ですが、伊賀越え気分はとても盛り上がります。
グイグイと道を進み、浄土寺前を通りすぎると、趣のある民家が並んだ細い旧道に差しかかりました。この道も家康が通ったといわれている道だそうです。
藤原信西の位牌が祀られている「大道寺(だいどうじ)」
糠塚地区から大道寺地区に入ると「ここには藤原信西にまつわる場所があるよ」と茨木さんが教えてくれました。
信西といえば平安時代に後白河上皇の院政で権勢を奮った人物。源氏の勢力を抑えるため平氏と手を結びましたが、源義朝らが起こしたクーデター「平治の乱」で討たれてしまいます。最期は田原(宇治田原)に向かい大道寺に逃れましたが、追手が近くまで来ている事を知り自ら即神仏になることを願いながら生き埋めにしてもらいましたが、源氏の軍兵に見つかり“自害”または“殺された”など、諸説あります。
ここがその「大道寺」です。御堂の中には信西の「位牌」とご本尊「不動明王立像」のほか、4体の仏像が安置されており、毎月月末には京都市の千本釈迦堂の住職がお参りに来られるそうです。
私たちもしっかりお参りをさせていただき、次のスポットに向かいます。
領民たちが築いた「信西入道塚」
大道寺の斜め向かいには「信西入道塚」が見えます。都で晒されていた信西の首を大道寺の領民が引き取り、この場所に塚を築いて菩提を弔ったといわれています。この近くには信西の首を洗ったといわれている「信西首洗いの池」もあるそうですよ。こちらの「信西入道塚」は宇治田原町指定文化財にも登録されています。
不思議な狛犬がいる「大道神社(おおみちじんじゃ)」
少し進むと鳥居が見えてきました。こちらの神社には菅原道真公が祀られており、本殿の棟札8枚と木造男神立像が宇治田原町指定文化財にも指定されているそうです。
鳥居をくぐると長い階段をトンネルのように木々が覆う参道が続きます。ここは紅葉スポットでもあり、秋には写真を撮りに訪れる人も多いのだとか。
お参りを済ませ、本殿横を覗いてみると何やら柵の中に閉じ込められた「狛犬」がいるではないですか! なぜ閉じ込められているか気になりますよね……。でもこの理由、今回は秘密だそうです(笑)。
もしかしたら「夜な夜な狛犬が逃げ出して悪さをするのかな?」とか、様々な想像をめぐらせながら大道神社を後にしました。
湯屋谷の入り口に入ると茶畑が広がり黒豆坂が現れます。茶畑の間の道を進んで行くと、だんだんと森に入っていきました。ここも家康が本当に通ったといわれる道で、進むにつれ鬱蒼とした険しい山道になっていきます。足元は落ち葉で滑りやすく、木の根も出ているので、ここを進むのは馬も人もきっと大変だったのではないでしょうか。
腹ごしらえにオススメのスポット「宗円交遊庵やんたん」
そろそろお腹も空いてきたので湯屋谷地区にある「宗円交遊庵やんたん」でお昼をいただくことにしました。こちらの施設は食事のほか、地場産品の販売や観光案内、お茶に関する体験プログラムが楽しめます。施設の中に入ると、お茶のいい香りに包まれました。
丁度お茶の手もみ体験をされていたので、参加させてもらいました。茶を焙(ほう)じたり乾かしたりする焙炉(ほいろ)を使い、煎茶を手もみすると、葉の水分が出てそれがお茶の甘味や苦味に変わっていくそうです。
そしていよいよランチタイム。こちらでは「彩りの茶汁セット」をいただきました。
お椀の中に季節の野菜と素麺、味噌玉が入っていて、そこに京番茶を注ぐと香ばしいお茶のいい香りがひろがります。この「茶汁」とは、もともと茶農家さんが農作業の合間に屋外でも手軽に食べられるように考えられた料理で、味噌玉を入れたお椀に手近な畑で採れた青菜などを加え、熱いほうじ茶を注いで食べる宇治田原の郷土料理だそうです。
ヘルシーながらも満腹感が感じられ、後半戦の「伊賀越え」も頑張れそうです♪
真冬でも17度の水温を保つ「冷泉」
腹ごしらえも終えたので次のスポットへ! 目的地は松峠ですが、途中にある湯屋谷の冷泉に立ち寄りました。昔は温泉が湧き出ていたそうですが、現在は真冬でも17度の水温を保つ冷泉が沸いているそうです。水に手を入れてみると、なんだか水の手触りが柔らかくまろやかな感じがしました。
いまにも家康が現れそうな「松峠」
そしていざ奥山田地区の松峠へ。大福谷から奥山田に続く道を歩いて行くと、いかにも「古道」という雰囲気の道が続きます。途中、整えられていないお茶の木が生えていたのですが、昔はこのように野生味溢れる感じで栽培されていたそうです。現在の栽培スタイルになったのは作業効率などを考えてのことだとか。
更に進むと森に入って行きました。森は間伐されていたので比較的明るい印象でしたが、おそらく当時は鬱蒼としていたであろう雰囲気が漂います。
松峠は東西の信楽街道と南北を結ぶ瀬田道が交わる要衝の地でした。道中にある井戸小屋の向かいには旅籠跡なども見られ、人の行き来があったことが窺えます。
少し進むと視界が開け茶畑が広がったかと思うと、今度は草を分けながらでないと進めない道に差し掛かりました。ガイドの茨木さんの後に続いて、ずんずん進んでいきます。
お地蔵さんがある峠に差し掛かかった辺りで茨木さんが「ここ松峠で一番いいところ。振り返ったら家康が歩いてくるような雰囲気がするよ」と教えてくれました。ワクワクしながら振り返ってみると「確かに!!」少し坂になっている道の頂上には、今にも家康が歩いてきそうな雰囲気が漂っていました。
ちなみに、なぜここが松峠と呼ばれるのかというと、昔はこの場所に3本の松の木があり「三本松峠」といっていたそうですが、そのうち松が枯れ「松峠」と呼ばれるようになったそうですよ。
伊賀越えの道はこのお地蔵様の前の道を降りて行くのですが、少し北側の道に入ると宝筐印塔(ほうきょういんとう)があると聞き見に行きました。宝筐印塔とは昔は先祖の供養をするために建てられたものでしたが、江戸時代後半くらいになると“お祈り”をするために建てているものが増え、この辺りは雷がよく落ちていたことから“雷避け”としても建てられるようになったそうです。
再び伊賀越えの道に戻り、ぬかるみに気をつけながら進むと山を抜けることができました。普段、運動不足の肉体にはなかなかハードな道のりでしたが、峠を越えた満足感で清々しい気分です。
家康の腰掛けの石が残る「遍照院」
そしてついにこの旅の最終目的地「遍照院」へ。遍照院は宇治田原と信楽(しがらき)を結ぶ信楽街道沿いにあり、1570(元亀元)年の開基と伝えられる真言宗の寺院です。このお寺は家康が伊賀越えの途中に立ち寄り、休憩をとったといわれています。
境内には樹齢約600年の立派な紅梅があり、その横には家康が腰掛けたと伝わる「家康公 腰かけの石」がありました。
これはぜひ座ってみたい!! ということで座らせていただくと、隣の紅梅との距離感が心地よい。家康がここを訪れた頃は梅の花は咲いていなかったでしょうが、花が咲いていなくても十分迫力のある古木に、思わずうっとりしてしまいます。
奥に進むと入り口から見えていた「紋」が埋め込まれた柵の場所がありました。この場所は伊賀越えの道を見下ろせる場所にあり、家康が休息している間、家臣が追手の監視をしていた場所だといわれています。ちなみにこの紋は高野山の「桐と巴」、四季を表す「梅・藤・紅葉・南天」の紋なんだそうです。今年の夏にできたばかりで、朝・夕には太陽の光がこの紋に反射してとても綺麗に見えるそうです。
そしてこちらの小さなわらじが可愛い「結びわらじ」は、境内に結んで奉納したあと、梵鐘を鳴らして想いを込めて手を合わせると願いが叶うとされています。
訪れた際は、ぜひお願い事をしてみてくださいね。
私たちも梵鐘を撞かせていただき、遍照院をあとにしました。
最後のスポットまで無事に辿り着き、今回の伊賀越えの旅はここで終了です。
みなさん、宇治田原の「伊賀越えの道」はいかがでしたか?
当時の地形を多く残した宇治田原町は、伊賀越えの道だけでなく、自然と歴史が詰まった豊かなまちでした。
この機会に、伊賀越えの道にもぜひ挑戦してみてくださいね。
■■INFORMATION■■
宇治田原町 産業観光課
所在地:京都府綴喜郡宇治田原町立川坂口18番地の1
電話:0774-88-6638
開庁時間:8:30~17:15(土・日・祝日、年末年始閉庁)
宇治田原町観光情報サイト: https://ujitawara-kyoto.com/
宇治田原町へのアクセスはこちらをチェック
https://ujitawara-kyoto.com/access/
※バスの本数などが限られているので、お越しの際は事前に時刻表を確認し、計画を立ててご訪問ください。